2017年12月10日日曜日

偕行会社 取締役 森沢徳太郎


森沢徳太郎  赤磐郡誌(要約) P1264

森澤徳夫(岡山県赤磐市大苅田:旧鳥取上村大字大苅田)

初め徳太郎と称し 剣を岡山藩の師範阿部家に学び、明治戊辰の役、遊奇隊半隊令司として、奮戦功あり、304人扶持を賜り、岡山藩士族に列せられる。

また、海運業(「偕行会社」の取締役)に従事、不幸難船の災いのため失敗、そして、鹿児島に移り、警部・警視に昇進、警視庁に移って勤めた。

その後、帰郷し、岡山県庁庶務課長を務めたが、再度、警視庁に勤務

国会開設にあたり、職を辞して、選挙で活躍したが、晩年不遇であった。

明治頃にあった「偕行会社」という海運会社について


偕行会社

 

明治頃にあった「偕行会社」という海運会社について、創設時期や解散時期の状況について知りたい。

 

回答(Answer)

(1)『岡山県大百科事典 あ~そ』(資料①)の「かいこうがいしゃ 偕行会社」の項目によると、

「岡山-神戸-大坂間を結ぶ明治前期の海運会社。岡山藩の常盤丸を借り受け、1870年(明治3)営業開始。資本金25万円(推定)。兵庫に本店、岡山に支店を置き、大株主は旧藩主池田氏。西南戦争(1877年)後の経済変動と海運会社乱立による過当競争から経営不振となり、1885年(明治18)偕行会社は河原信可(後、大阪商船会社社長)に株を譲渡して解散した。」とある。

 

(2)『〔改編〕岡山市史 産業経済編』(資料②)には、資料①の内容を具体的に説明した記載がある。内容は以下のとおり。

「明治新政府は、明治210月の布告で西洋型船舶の製造と民間人の所有を許し、翌3年商船規則を公布して、洋式船舶所有者に対して特別の保護を加えることを明らかにした。さらに47月廃藩置県の結果、旧藩所有の汽船が政府に帰属したのを機に、以後士族授産・殖産興業の一環として官船の貸与・各汽船会社への補助金下付などの保護育成がなされた。

 これに対応して、備前藩会計安井改造は、幕末に藩用で長崎出張の折購入した常盤丸を藩主池田家より借受け、明治3年神戸の富豪橋本藤左衛門を説得して、士族授産会社“偕行会社”なる蒸気船会社を創立した。社長 橋本藤左衛門、取締役 森沢徳太郎・岸鉄二・津田弘道が就任して岡山・神戸・大阪間の営業を開始した。…(中略)…群小船主の同盟によって、関西海運界の競争は一時終熄を告げたかのごとくみえたが景気は好転せず、もともと利害を異にする船主のことゆえ同盟破約するものが続出し、以前同様、過当競争、運賃ダンピングの状態にもどった。当時、関西海運界の雄、偕行会社においてさえ、船底を張る資力なく、海浜に船を引き上げ、船底を枯葉で焼くという漁船方式で間に合わせる窮状であった。…(中略)…明治181215日、岡山区内山下芳春館の株主総会で、士族授産会社偕行会社(本社神戸市北長挾通六丁目)は解散が決行された。」

 

(3)『岡山市史 第6』(資料③)にも、「第16章産業 第2節士族授産と殖産興業」の中に、「偕行会社」という項目があり、資料①および②と同様の記載がある。なお、偕行会社の解散の一次文献として、『山陽新報』明治1926日の記事を一部抜粋し、明治181215日にあった株主総会の内容が紹介されている。

 

(4)資料③より明治1926日の『山陽新報』(資料④)を確認すると、資料③の記述が確認できる。なお、ここでは「偕行会社」を「偕行社」と記載している。

 

(5)資料②を元に、「偕行会社」の取締役の「森沢徳太郎」、「岸鉄二」、「津田弘道」の関連資料を調べる。

 前者2名についての資料は見つからないが、「津田弘道」については『津田弘道の生涯 維新期・岡山藩の開明志士』(資料⑤)があり、偕行会社について資料①および②と同様の記載がある。

 なお、弘道は「第10章岡山藩の士族授産」の中で「偕行会社再建取締役」として取り上げられ、以下のとおり、会社再建に奔走したことについて記載がある。

 「会社再建のため約1ヵ年、岡山・神戸・東京間に奔走し、松田金次郎を海軍から偕行会社に迎える件こそ成功しなかったが、融資面では、池田家から出資金を仰ぐことに成功し、第1回分は先述のごとく東京で既に受け取っており、第2回分は国立第二十二銀行を通して、後に受け取り、融資を受けるようになる。」

 

2017年7月29日土曜日

明治4年愛宕事件に連座 田淵敬二


田淵敬二 たぶちけいじ

天保11(1840)年~明治33(1900)721 江戸時代末期・明治期の勤王家。愛宕事件に連座、10年間投獄される。後、久米南條郡長。赤磐郡誌P921

 


明治4年外山・愛宕事件(二卿事件)

明治27年7月~明治28年2月 磐梨郡物理村大字下田淵敬二士族復族願書類

 



二卿事件(にきょうじけん)は、明治4年(1871年)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀ったクーデター未遂事件。「外山・愛宕事件」とも呼ばれる。

彼らは明治政府を倒して新しい政府を作り直して攘夷を行って外国と戦うべきであると唱えていた。

新政府を倒して明治天皇を京都へ連れ帰り、攘夷を断行するべきであると進言した。

明治4128日(1871318日)に京都を発ち、24日(324日)に東京に入る。東京に火を放って天皇を京都に連れ出す作戦を練った。

一方、外山光輔も、同じような計画を企てていた。

発覚

まず、37日(426日)に外山光輔が捕縛され、10日に東京の久留米藩藩邸が政府に押収されて藩知事有馬頼咸が幽閉された。314日(53日)には愛宕通旭が捕縛された。首謀者の二人は明治4123日(1872112日)、二条城芙蓉之間にて切腹させられた。

 

2017年6月10日土曜日

書籍紹介 磯田道史「龍馬史」

書籍紹介 磯田道史「龍馬史」 龍馬暗殺の最終結論

http://agora-web.jp/archives/1659360.html


ここで紹介されている 手代木直右衛門は岡山市東山墓地にお墓がある。

http://www2e.biglobe.ne.jp/fujimoto/zenkoku/tesi1.htm



2017年5月6日土曜日

2017年4月25日火曜日

岡山県和気町 藤公園  藤が咲き始めた

岡山県和気町 藤公園(日本一の藤公園)

藤が咲き始めた  現在はほとんどつぼみです。

一番早い藤の写真です

2017年4月24日月曜日

明治2年 長崎のキリシタンが岡山県の鶴島に流刑


キリスト教が弾圧されていた時代に、長崎のキリシタンが岡山県の鶴島に流刑にされて来たと聞いたことがある。鶴島に遺跡などがあるようだが、そのことについて書かれた資料にはどんなものがあるか。
[URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000184841

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要約
 鶴島は岡山県備前市の日生諸島に属する無人島。明治2明治新政府のキリスト教弾圧によって捕らえられた長崎浦上の切支丹のうち117人が岡山藩に預けられ、39この島に送られた。明治6に信教の自由が認められるまで過酷な開墾と改宗を強要され、その間に18人が死亡したが、その墓地は南東の丘陵斜面にあり自然石による墓石が残っている。

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岡山大学池田家文書 検索
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/micro/metadata/28965
明治2年12月長崎県より異宗門徒118人引請.外務省より取扱方取調達ニ付雛形及び取調書.長崎県庁より岡山藩引請人名その外取調依頼書あり。

この資料では117人ではなく118人となっている